もう、女にはもてない、それどころか、既に女房とやる能力が枯渇しているという心理的抑圧は、女を拒絶し、その関わりを不潔とした嫌悪感に代償され、潜在意識となって心に広がるのであります。つまり、女とのことに関しては無意識の世界となるのです。私の無意識が死を認めないと同様、彼の無意識は、女との交渉を認めない。私が死に嫌悪感を持つと同様、彼は、女とのことに嫌悪感を持つのであります。
彼は、ある同人誌に所属してもいるのですが、正直に言って、書くものはお世辞にも巧いとは言えません。
しかし、他人の書いた文章を評するとなると、実に、傲慢無礼ともいえるほど辛辣であります。これなども、自分の劣等感からくる、無意識による投射という自己防衛規制が働いている。彼の抑圧された意識下の欲求、感情が歪曲されて現れたものと言えます。
意識と無意識は「正反対の世界」というなら、我が旧友は,自ら気づかぬまま,心の奥深いところで、女のことばかり考えていたり、人の書いた文章は、自分にはとても書けないなあと憧れるのであります。
彼が心理学者に麻酔かなんかかけられて検査されれば、直ぐ、ばれるのであります。
これくらいの話なら、特別、フロイトのお世話になる必要もなく、私、本屋で心理学入門とかいう本など買って読みましたので分かるのでありますが、私の無意識が、死を認めないのは厄介なことであります。
ことに、死が見えなくなったこの社会ではより厄介なのであります。
戦争時代、死は日常茶飯亊でした。戦争へと出かけて行った人はもちろん、内地に空襲で焼夷弾を落とされたり機銃掃射を受けた女子供たちもそうであります。
このとき、いわゆる「生命の飢餓状態」が続いておりまして、自分の生存を続ける見通しが断切られたときに起こる、迫り来る死への抵抗、猛り狂う人間の生への執着、激しい生命への欲求がありました。ところが、現在、その反動で、平和惚け、というのが俄かに跋こし、急速に進行しておるのであります。
テレビはバカタレントを品数多く駆り出しまして騒ぎ捲っては笑わせてくれるのであります。ときには若い女性が脚線をちらつかせて、色気までサービスする。それでは飽きたらず、もっと過激な場面を求めるなら、アダルトビデオというものがありまして、出来不出来は別としても、これがなかなかいけるわけであります。
こういうのがありますので、年寄りが、わざわざ金まで出してヘルスなどに行かなくても、結構、憂さを晴らしてくれるのであります。これらに飽きますと、丁度そこで、テレビが美味い物旅行とか、料理の鉄人などという番組を放送して食欲をそそるのです。つまり、性欲、食欲、動物の基本的行動を幻影ではありますが再認識させるのであります。これが毎晩のように続きますから、頭の方もそのように慣れさせられまして、人生、ま、こんなもんだと気軽になる。
平たく言えば、人生、食い気と色気であります。
こういうわけでありますから、死は、益々見えにくくなってしまった。
宗教や哲学をもたないのも拍車をかけます。おのれの余命を数えれば、後、十指に満ちません。
彼の徒然草に、
「死期はついでを待たず。死は前より死も来らず。かねて後に迫れり」と書いてあります。つまり、死は、いきなり背後から闇討ちのように襲うのであります。
大分前の話ですが、司馬遼太郎が、就寝前の歯磨きをしていて、突然、倒れたのもこれであります。また、死は、「推理小説のごとく、本人にとって、最も意外な形でやってくる」などと言う作家もいる。私は戸惑い、肩をつぼめ、鼻水をすすり、ただ、頭を下げるしかありません。
先日、ミリオンセラーという宣伝に乗せられまして、〈ソフィーの世界(ヨースタイン・ゴルデル著・NHK出版〉という書物を買ってきました。
いきなり、「あなたはだれ?」と書かれているのを読みまして、今更のように目を剥いたのでありますが、私自身の存在理由が分かれば、私が消滅することも納得できないものではありません。
この本を四、五回繰り返して読めば、多少哲学に興味が沸くかも知れませんが、読んでおります最中、あろうことか、私の心の奥深いところで、もう何をやるにしても時間が足りないではないか、後、幾許もないのに。今更、哲学の本など読んで何になる。どうせ死ぬなら、病院に担ぎ込まれる寸前に、なんぞ、ころりと逝く、ええ薬はないものか、などという危ない考えが過るのであります。
なぜこんなことを考えるかと言いますと、私は、臨床医をやっていた友人から、死の現場で、凄惨極まりない場面があることも聞いているからであります。
そればかりでありません。現実、私どもが病気見舞いにまいりまして感じますのは、全快して退院できると分かっている人は、多少苦痛が見られても、見舞いを朗らかな感じで受け入れてくれますが、もう駄目だと言う人の場合、陰湿で、それほどの苦痛が見られないにも関わらず見舞いに差し入れた本とか、音楽テープなど積極的に受け入れる意欲は見られません。
つまり、死の予感は全てのものを拒否し、ひたすら、孤独と寂寥感に耐えねばならないのです。
昨今、更に死の意識が薄らいでいますのは、個人のプライバシーという問題がありますので、なるべく見えないところ、つまり、病院の一番奥深い部屋の中で,ごく内輪に処理され、また巧いこと、葬儀屋というのが完全密着しておりまして、死を美しくベールで覆い、死の無惨が実感されないからであります。
あるいは、もう一つの考えとしまして、長寿を唯一、社会善とし、我々年寄りを惑わすのであります。
残酷と安楽死の葛藤は、先に言いました、女に対する劣等意識が、女との関わりへの嫌悪感に代償されたように、永遠の衰退という妄執に代償されまして、私、死は考えられず、ただ、年金もらって、なんとなく、ほわあんと毎日を過ごしているわけであります。
先に言いました旧友に贈呈した同人誌に、私の小説の主人公が、浮気の欲望が満たされようとする寸前、病気のため入院せねばならぬと知ったとき、無意識のうち、自分の妻を代償に、行為をするという場面があるのですが、我が親友は、誰にでもありうる心の葛藤のとき、人は、どのような行動をとるのか興味を示し、語ろうとしなかったのは残念でした。
死にたくないが、死なねばならぬという心の葛藤で、末期ガンと告知された人の心理は、かのイギリスの精神科医、E・キュウプラー・ロス氏の著書「死ぬ瞬間」で明らかにされています。しかし、今もって死の時期がはっきりしないとき、体力は、やや衰えつつあるが、薄ぼんやり死の意識に怯えております私のような場合、今後どのように心理の推移するかは知りません。
ところで、私?今、盛んにエロ小説など書き、同人誌に投稿しておるのでありますが。もしや?
これ、無意識の仕業ではないか。死の葛藤から逃避して、白昼夢を見ているのではないか。
何やらこの紙面で墓穴を掘った感じがするが?
私、この際、何が何やら、こんがらかってしまって、訳が分からなくなってしまったのであります。
しかし、今、いくら、考え、へ理屈をこね回したところで、ともかく、人間は生物であります。生殖を終えて死んでいく生物であることには間違いありません。ですが、孤独と倦怠の中で、生きる屍として老いたくないというのも実感であります。といって、私、今、どうすることもできないのであります。
子供の頃、正月のやって来る日を、指折り数えながら待った楽しさは、いまや、逝く年を指折り数えながら待つ不安となってしまいました。
もう少し若い頃、人生のことを考えていればよかったなどというの思いは既にありません。
もはや、生の喜びより、生き残ったうしろめたさすら感ずるこの頃なのであります。
しかし、死を不可避なものとして意識するということは、それが一年先であれ、三年先であれ、今という瞬間の生を濃密に意識せざるを得ない状況をつくりだすことにもなるはずであります。
私は老残の身とはいえ一個の人格であり、自分に残されたはずの表現機能を何をもって出しうるか、同人誌で出しうるか、丁度この文の書き終わる所で、まず、その辺りに考えが及んだわけであります。
(頓首)
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